「詩織ちゃんっ!」
右手で着物の左の袖を握る綾子。そんな力で握れば皺になってしまうだろう。先ほど水割りも零したことだし、早めに対処しなければ、もはや着ることもできない代物となってしまいそうだ。
ギチギチと握り締めるその姿に、詩織はなぜだか申し訳なさそうに視線を落した。だが思い直したように美鶴を見上げ、口を半開きにして笑った。
「美鶴」
気のせいだろうか。詩織の声が微かに震えている。
嘘だ。
美鶴は自分に言い聞かせる。
お母さんの声が震えるなんて、あり得ない。だって、いつだってこの人は適当な人間なんだから。
そんなふうに軽蔑を含めて相手の出方を伺うような美鶴。詩織はその姿に呆れたような笑みを浮かべながら、ごく自然に、当たり前のように言った。
「美鶴、アンタにはね、父親候補が三人いるのよ」
「父親、候補?」
瞬間、脳裏に浮かんだのは、母の乱れた男性関係。
やっぱりお母さんはサイテーだ。
美鶴はグッと相手を凝視する。
さぁ、この先どんな言い訳をかましてくるのか、聞いてやろうじゃないの。
だが、そんな侮蔑の視線を真正面から受け止め、詩織はなぜだかそれ以上は言わない。
どれだけ待っても口を開かない相手にしびれを切らし、結局は美鶴が口を開いた。
「やっぱりお母さんって、サイテーね」
「違うのよっ!」
美鶴の言葉を、綾子が遮る。
「違うの」
「違う? 何が違うの?」
「違うのよ。そうじゃないの」
美鶴の質問にまったく答えていない言葉を繰り返す綾子。
「そうじゃないの。詩織ちゃんは、そうじゃないのよ。詩織ちゃんは……」
美鶴に向かって身を乗り出し、そうして両手に力を込め、喉から声を絞り出した。
「詩織ちゃんは、三人の男に、乱暴されたのよ」
乱暴された。
綾子としては最大限の配慮だった。美鶴の受けるショックを少しでも和らげようと、詩織の中に眠る記憶をできる限り呼び起こさぬようにと、できる限りの言葉を選んだ。
だが結局、場は凍りついた。
詩織は、何も言わない。
綾子も、それ以上は何も言わない。言わないまま、黙って目の前の美鶴を見上げている。
そして美鶴は―――
美鶴の瞳には何が映っているのだろうか。大きく見開かれた双眸には何かは映っているのだろうが、それが何なのかは本人にもわからない。
「三人」
自分がそう呟いたのにも、気付いてはいない。
美鶴の言葉に、綾子は視線を落した。
「その内の誰なのかは―――」
何も言えぬまま、ただ目の前に広がる真っ暗な世界の中を、美鶴はただ瞠目するしかなかった。
自分は、そんな理由でこの世に生まれてきたというのか?
「直々にお越し頂けるなんて、恐悦ですわ」
優雅な仕草で瑠駆真に席を勧める廿楽華恩。だが瑠駆真はその好意を無視し、わずかに背筋を伸ばした。
土曜日の放課後。午前中の授業を終えて帰り始める生徒達の声が微かに流れ込んでくる生徒会副会長室。
お茶会の件についての返事を直接伝えたいという瑠駆真の意向は、即座に受け入れられた。次期副会長だと噂される同じ二年の女子生徒に案内された部屋は、中庭にある別館の三階にあった。隣は生徒会長室だとか。
案内された部屋は、間違いなく"部屋"だった。コンクリートむき出しの教室とは違い、落ち着いた壁紙で囲まれ、床にはカーペットが敷かれている。給湯室も隣接し、ちょっとしたお茶ならすぐに用意できる。
これが生徒会か。
瑠駆真はそれらを一瞥し、目の前の女子生徒と向かい合う。
廿楽華恩。
今まで名前は何度も耳にしたが、面と向かい合うのは初めてだ。いや、聞くところによると、登校時に挨拶などを交わした事があるらしい。だが瑠駆真の記憶になど残ってはいない。
記憶にも残っていないなどと言ったら、相手はどのような表情を見せるだろうか?
化粧慣れした顔をまじまじと見つめる。一般論で述べるなら美人なのだろう。だが瑠駆真には、整えられた眉も、黒目の艶やかな瞳も、筋の通った鼻も、なにもかもに違和を感じた。
創られた美人だ。美鶴のように、魅かれるような内面を兼ね備えた美ではない。ハリボテのようなその美しさを、さてどこまで被り続けることができるだろうか?
一方、瑠駆真の円らな瞳に凝視され、廿楽華恩は薄っすらと頬を染めた。
「そのように黙ったまま立たれても困りますわ」
凛とした口調で矜持を保ちつつも面映さを絶妙に織り交ぜた表情で、再び席を促す。それでも瑠駆真は座ろうとはせず、そうしようという仕草すらみせない。
部屋の隅に小さく佇む緩の存在には気付いていたが、そちらへは視線を向ける事もせず、瑠駆真はただまっすぐに相手と向かい合い、前置きもなしに直入に告げた。
「お誘い頂いたお茶会の件ですが」
瑠駆真の言葉にやんわりと返す無言の笑み。次に続くであろう言葉に一抹の不安も感じず、自分の望む言葉が来るに決まっていると信じて疑いもしないその眼差しを、瑠駆真は冷徹に突っぱねた。
「お誘いは、ご辞退します」
時の流れが止まった。本当に止まったと、誰もが思った。
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